bar Harry's Blog.

下高井戸のbar Harry'sのブログです
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# 消えた駄文


飯吉です。またしても、家に居ながらにして妄想の旅に出ました。今回はカミュとサルトルの論争に加わり、カミュの援護をするつもりで、それについてブログを書き進めていたら、先程、たまにあるアクシデント、エラーが発生してしまい、私が、長々と書いた文章が、一刹那で、薄氷が決壊するように、急に崖から落ちるように、全て消し飛んでしまいました。


もう1度同じ文章を書く気は起きず、私の心は折れたポッキーのようになってしまいました。


土砂降りの雨に打たれる、地べたに投げ捨てられたタバコの吸い殻のような、惨めったらしい気分で今、ハイボールを飲んでいます。


そういえば前にもこんなことがあった。あれは私がまだ小学生の時分、テレビゲームをしていて、生まれて初めて、1つのゲームソフトを全面クリアしたその瞬間、側にいた私の姉の足がゲーム機の電源に絡まり、テレビ画面は暗黒へと切り替わり、私が暗澹たる思いで再び電源を入れると・・・・・・データは全て消失していてた。


そうか! これか! カミュが言いたかったことは! これぞ不条理! シーシュポスの神話、神々の命令で山頂に岩ん運んでは、運び終わったかと思った瞬間に岩は麓めがけ転がり落ち、また運んでは転がり落ち、の無限後退。ニーチェでいうなら永劫回帰。賽の河原の石積みよろしく。ドミノにしたって、倒す為に並べてるにも関わらず、倒れないように並べなければいけないジレンマ。



カミュは正しい。


飯吉






| comments(0) | - | 17:02 | category: - |
# 哲学についての駄文

飯吉です。私は宇宙旅行って行ったことないんですけど、家に居ながらにして、机の前で、椅子に座り、論理宇宙を旅して帰ってくることがよくあります。


今日は哲学の開祖・ソクラテスの命日であると、今朝テレビで林修先生が言ってました。ソクラテスといえば世界3大賢人の1人といわれ(あとはキリストと御釈迦様)確かにフィロソフィー(本来は哲学でなく愛知と訳すのが相応しいらしい)といえばソクラテス、ソクラテスといえばフィロソフィー、といった認識が一般に流布されていると思います。


私も余り詳しくは知りませんが、無知の知、とか、産婆術(質問責めにして相手の意見が如何に根拠薄弱であるかを突き付けるプライベートでやると確実に友達を減らす弁論術)とか、悪妻を持つと人は哲学者になる、とかいったイメージしかありません。


ああ、あとプラトンのお師匠様ですね。ソクラテス自身は生前1冊も本を出版していませんが、没後に弟子のプラトンが自身の書籍の中でソクラテスを紹介しています(その点はパスカルやソシュールと似ている)


 今夜、皆様の投票で選ぶ戦国武将ランキング、みたいな番組が放送されるそうですが、もしそれを哲学者バージョンでやったら、恐らくプラトンが1位になると思われます。20世紀ならマルクス、最近だとニーチェが伸びてきてるようですが、プラトンは常に人気があり、哲学の命題の8割は既にプラトンが提起しているとまで言われるほどです。


ただ、ウィトゲンシュタインが好きな私としては、プラトンの思想、プラトニズム的伝統に縛られ過ぎたがために西洋哲学は二元論に縛られて、例えば、「主観」と「客観」の存在を区別できるか? などなど答えの出せない問答に陥ってしまった点について、賛同できかねます。


その点、西洋哲学、御釈迦様は凄かったというしかありません。諸行無常、諸行無常というと平家物語のイメージからか、繁栄していたものも必ず衰退する、といった意味合いに思われがちですが、本質は、物事というものは一瞬一瞬(刹那瞬)移り変わりゆく、という意味です。こっ、これは、まさに近代になってようやく科学が解き明かした、時間や空間が不連続的であるといった学説そのものではありませんか。


物質の構成要素は原子核であり電子であり、その振動状態に左右され、存在は確率でしか表せない、線形でもなく、などなど、そんなショッキングなサイエンスを御釈迦様が知っていたはずないのに、真理を見抜いてみせたわけですから偉大ですね。



ただ、私、プラトンの弟子であるアリストテレスは好きです。形式論理学の父とされていてやはり大天才ですし、何よりある逸話がすきです。当時アカデメイア学派(アカデミーの語源)に属した彼の風貌はというと、チャラかったらしいです。アクセサリーとかジャラジャラつけていたそうです。そしてそれに対して、真理を探究するために集いし者が身形を着飾るなどといった世俗的なことにかまけるとは何事か? といった感じで説教されます。今でいうと、校則の厳しい進学校で風紀委員会が髪染めてミニスカート履いている女生徒に注意してる感じでしょうか?


そしてその注意に対するアリストテレスの回答は、チャラい格好の者には真理の探究ができない、などと、人を見た目で判断している貴方達の方こそ、真理から遠いのでは? みたいな返しをします。


恐らくこれを現代の学校教育の場でやってしまうと、後でその子の家に電話を掛けられたりするのでしょう。



外に出られない今、家で哲学をしてみるというのは如何でしょう?



飯吉




| comments(0) | - | 13:34 | category: - |
# 振り向いてみただけの



飯吉です。


フランスの哲学者ジャンポール・サルトルは不意にこう考えたと伝えられています。


「飢えた子を前に文学は何ができるか?」


そしてその問いに対する彼の帰結は、文学の影響で社会が変化して最終的に子供が飢えない社会になる、というものでした。そんなサルトルの元盟友、アルベール・カミュの本が、今まさに未曾有の社会情勢の中、人々の注目を集めています。それ以前から私は、「カミュは素晴らしい」と時折熱っぽく語ってきました。するとお客様からカミュを読んでみたいという声があり、今日はブログでカミュの代表作である「異邦人」の魅力を、ネタバレにならないようにしつつ、書いてみたいと思います。長くなります。



まず主人公のムルソーという青年、とても厭世的でニヒリスティクな男です。ただ、今で言うところの「非リア充」ではありません。彼女も友達もいますし、ちゃんと生活できてます。そんな彼がひょんなことから揉め事に巻き込まれ、大罪を犯してしまいます。


当然裁判にかけられます。神父様から、反省しなさいと言われます。が、彼は反省しません。ここがこの物語の肝です。主人公は確かに罪を犯し、その報いとして社会的ルールに基づいた制裁を受けることには何ら異論を持たないしかし! 反省することを強要するのはおかしい、おかしいというか、不可能ではなかろうか? と世界に問いかけているのです。


それまでの世界観からすると、キリスト教という「ルール」があるから、あっコレはルール違反だからいけないことなんだ! と反省できるのですが、それがなくなった世界、つまり神を信じない人々の世界では誰がどうやって人を裁けるのか? 裁くことは可能か? というのがこの作品のメインテーマです(カミュ以前にもドストエフスキーが描いている)


そう、ムルソーというニヒリストには、「信仰」がないのです。言い換えれば「必然を認めない態度」とも言えましょう。必然の典型・運命(キリスト教だと予定説)または、こうしたからこうなったという原因と結果(仏教だと因果律)、もっと言えばフロイトの精神分析や、サルトルの実存主義、つまり、こういうことをしたから私はこういう人間です、という理由の後付けすら認めていないように私には思われます。


そしてそれらは、カミュ以外でも、ニーチェや、ヒュームや、ソシュールや、ウィトゲンシュタインがや、御釈迦様、などなどが見抜いていたように思われるもので、更には20世紀の大きな科学の転換期にゲーデルやアインシュタインやシュレディンガーやアローなどなどが続々とデモンストレートまでしてしまった1つの真実です。



そんなふうに言われると、ムルソーって暗くて嫌な奴だな、と感じられる方も多いことでしょう。ただ、彼は正直な男なんですよ。正直すぎるぐらい正直で、恐らく彼は、上記の欺瞞の衣を纏うことを拒否し、彼が生の喜びを感じる瞬間というのは、「より真実らしいもの」に近づけた時なのではないでしょうか? だから裁判でも自分に不利になる証言も平気でします。コレが真実、裁きたきゃ捌け、でも反省の強要、精神の自由を奪うな、奪いたいなら根拠を示せ、といった態度を取り続けます。まさに、俺は真実へと歩いてゆくー!


そう、この「自由」というのもカミュの大きなテーマです。この裁判にしたって、人間の作為による極めて恣意的な制度ですから、1個人がそこから自由になってやろうという主人公の試みでしょう。



このように、不条理の哲学と呼ばれるカミュの思想も、言い換えれば「偏見はよそうよ」という考えだと私は思います。不条理とは条理の反対ですね。では条理の定義は? こうなるべき、という先程も触れた予定や因果の類がちゃんと守られている、という人々の実感であると言えましょう。それはあくまで人間の心理状態であって、実際にそれが自然界に転がっていないのなら、不条理こそ条理(芥川龍之介、侏儒の言葉より)ということになるまいか、とカミュは言いたいのではないでしょうか?



私はカミュの思想は、非常に寛大で優しいものだと思います。ロランバルトという言語学者はカミュの文体を絶賛しています。その理由は、詳しく書くと更に長くなるので簡単に言うならば、読者に押し付けがましくない、こう解釈して読んでください、という圧がない、まるで他人事のような俯瞰的不感的文章なのです。


自由と真実を愛したカミュは、革命のために軍事力を行使することを否定し、盟友であったサルトルから絶縁宣言され、世間からも非国民扱いされます。ただ、どちらが正しかったか、後の歴史が証明してくれました。


確かニーチェにもそういったことがありました。周囲のインテリ達が某思想にかぶれて血気盛んへと化していく最中も、彼は冷静に、世界の趨勢を見極めていたのです。真実の尻尾を掴んだ男達はかくも預言者たるのでしょう。



といった感じで、私はカミュを尊敬しています。散文的ですみませんでした。皆様も、こういった時勢柄、流行ってますし家でカミュを読んでみてはいかがでしょう?




振り向いて見ただけの異邦人・飯吉









| comments(0) | - | 18:20 | category: - |
# 遥か彼方へ行ってきます


外に出られない今日この頃、家にいながらにして遥か彼方へと行ってみましょう。古代ローマに行った、という妄想です。


といってもローマ史は長いので、だいたいいつ頃に行くかというと、やはりかの英雄、ユリウス・カエサルがいる時代が良いと思われます。


まず、僕自身が、スブッラ(都心に近い庶民の住宅街)で生まれ、カエサルとは幼馴染という設定、カエサル同様、プラプラ遊びながら大人になって、ローマ市内にBARをオープンする。カエサルは酒を飲まないが、付き合いで店に来てくれる。ブラッディシーザーのウォッカ抜きを振る舞う。


カエサルが政治活動をし始めたら、僕もそれに加わる、と言いたいところだが、民衆派のカエサルの敵にあたる元老院派のスッラが生きているうちには、店を構えている以上、殺されたくないし大人しくリベラルな立場を示す。


そしてカエサルが傭兵をやって各地を転々とした後、スッラが亡くなってローマに帰還したその時に彼と合流し、そこから政治活動に参加する。スッラはいないがまだまだローマを牛耳っているのは元老院派だから、店を開けていても気が気でない。 


カエサルが再びローマをおわれ、大学へ行く旨を決め、実際に大学に通った後ローマに戻ってきたら再会。弁護士になったカエサルに便乗して僕も弁護士まがいなことをする。そして、かのキケロと弁論合戦をする! そして打ち勝つ! 普通に考えればキケロには勝てないが、大いなるハンデ、そう、僕は未来からきた未来人なのだ。キケロの弁論集を読んで予習バッチリ、勝てる。



それから色々あった挙句、僕もカエサルのガリア遠征に同行し、ルビコン川を一緒に渡る。




とまあこんな具合で妄想しています 笑



皆様も、たまにはこんな感じで妄想旅行に行かれてはいかがでしょうか?




どちらかというとギリシャ人よりの男・飯吉





| comments(0) | - | 17:39 | category: - |
# 唯

 昨日、久々に下高界隈をうろつく飯吉の姿があった。昼に向かい強まっていく日差しを浴びながら古びた自転車で線路沿いを走り抜けていった、その先にある戸建の前で、足を止めた。


戸が半開きになってい、ぼんやりと見えている戸建の内部はひっそりと薄暗い。


恐る恐る店内に入ってみると、そこは「bar唯

」であった。


いつオープンするかは未定だが、準備は着々と進んでいる。飯吉が予想していたよりも、店内は遥かに広々としていて、作業もしやすそうだ。


早くこの空間で皆様のお顔を拝見できる日が来ることを今から楽しみにしております。



飯吉

| comments(1) | - | 17:00 | category: - |
# bar 唯 


初めての花を飾る




| comments(1) | - | 11:17 | category: |
# bar 唯 



今日はボトルを少し並べてみました。ハリーズより狭いので本数も限られますが。

今週末にはほぼ完成ですが開店日はまだ未定です。


| comments(1) | - | 12:14 | category: - |
# 日の名残り


カズオ・イシグロ原作の映画「日の名残り」を観ました。名家に忠義を尽くす執事の話です。メインテーマはラブロマンスらしいのですが、それよりも、第一次大戦と第二次大戦の間を英国で生きた人々の、何か哀愁のようなものを強く感じさせる作品であると個人的には思いました。



英国史の主役といえばやはり貴族といって差し支えないでしょう。よくイギリスは「紳士の国」と言われますが、それは貴族から始まった英国文化そのものの格調高さに対しての賛辞でもあるのではないでしょうか? 


そういった「英国の誇り」が、かつてほどは経済大国でなくなってしまったイギリスの中で時代のうねりに伴い生きる上での重荷となって、貴族は葛藤し、貴族に使える使用人も葛藤し、その心のひだの揺曳が、私の目には哀愁として映りました。


貴族と使用人。日本が武士道なら英国は騎士道。向こうは契約社会ですから、王様と騎士は多重契約が可能であり、1人の騎士が何人もの王様に使えるなんてことはザラで、それを聞くと日本人的にはなんと軽薄な! と思われがちですが、実際、王に仕えた貴族(ヨーマンとかジェントリーとか)は頗る忠義を尽くしたといいます。


 また映画の舞台となった時代のイギリス、いくら近代化以降といえど、ヨーロッパ的伝統主義(伝統を重んじる、という意味ではなく、伝統以外は禁止、という意味)が人々の心の中から魔法のように消えていたということはありますまい、したがって彼等の中に、英国紳士たるやかくあるべし! といったプライドが各々回顧録のようにあったはずです。それが時代によって否定されていくのです。


新撰組が如く、当時英国軍人も敵前逃亡はタブー。マレー沖海戦で、沈みゆく英国最強戦艦プリンスオブウェールズの上で、フィリップス提督は部下から「逃げましょう!」と言われ、それに対し「ノーセンキュー」と言って微笑んだといいます。そしてその一報を寝室で電話越しに聞いた、時の首相ウィンストン・チャーチルが受けた衝撃たるや!


沈みゆく大英帝国。チャーチルの揺らぎは国民の揺らぎ、貴族も、その使用人も・・・・・・。




今回の映画を観て、私は、上記のような観点、かつてあれほど栄華を極めた英国の格調高い文化が時代によって衰退していくその中での、人々の葛藤に、洒落た哀愁を感じさせられた、というのが第1の印象です。ラブロマンスはう〜ん、局所的であるかなと。因みにこの映画の原作は読んだことありません。


英国紳士からは程遠い飯吉

| comments(0) | - | 10:55 | category: - |
# 飲酒という因習



表紙からして楽しそうな一冊です。時代劇でも漫画の昔話なんかでもいいんですけれども、そういった物語に酒が出てくると無性にそれが美味しそうに思えて仕方がないというのは、私だけでしょうか?


 恐らく、日本酒なんだから和の雰囲気の中で飲んだ方がより美味しく感じられる、といった捻りのない理由からなんでしょうけれども、そういえば、下高井戸に新しくそういったお店がオープンする予定があるらしいのです。「BAR唯」というお店なんですよ。



その本に書かれておりましたが、お酒というのは単に飲んで楽しくなるというものじゃないらしいんですよ。神聖な、神様などを迎い入れるためのツールであったり、聖なる世界を行き来するためのツールであったり、穢れを祓い身を清めるために飲むものだと言うんですよ。


穢れを祓う・・・・・・ああ、だから私はこうして毎日のように、人並み以上にお酒を嗜んでいるのでしょう。合点がいきましたよ。




酒の友達・飯吉

| comments(0) | - | 15:51 | category: - |
# ジョイス


 私がまだ子供だった頃、家族旅行で甲府にあるワイナリーを訪れた際、私はワインを試飲させてもらえず酷く落胆したと、昨日のブログに書きました。


 そして今日、特にわけもなく、アイルランド出身の作家ジェームズ・ジョイスの代表作の1つである「ダブリン市民」を読んでいたら、女の子が、平気でシェリー酒飲んでる描写が出てくるじゃありませんか! 羨ましい 笑


また、ウイスキー発祥の地とされるアイルランドだけあってか、蒸留所の自慢話をしてくるお爺さんとかが登場します。



なんだか心が和みました。


飯吉


| comments(0) | - | 17:31 | category: - |
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